Copyright© Kei Shiratori 2008-2023

能天気にウェブ政治などと言うべきではない2013年03月07日 23時56分56秒

『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』(西垣通、中公新書)

を読み終えた。
 ネットの登場によって生まれたといってよい「集合知」は、情報とメディアをドラスティックに変えつつあることは間違いない。
 人間の思考方式が、検索システムに代表されるネットの集合知によって大きく変化しており、そこから新しい「知」の形態が生まれてくることは間違いないだろう。しかし、集合知が最終ステージというわけではなく、そこにも、旧来のメディアに劣らないさまざまな問題があると思う。

 本書の第5章「望ましい集合知をもとめて」では、集合知とリーダーの関係について考察している。そこで、西川アサキ氏のコンピュータ・シミュレーションモデル(アサキモデル)について紹介している。
 アサキモデルとは、『多数の「モナド(単子)」が相互に対話をおこない、そこに「中枢」としてのモナドが自然発生するダイナミックスを検討するためのモデル」(本書157ページ)であるそうだ。ライプニッツとドゥルーズを理解していないとわからない概念らしく、頭の悪いぼくにはよくわからないが、ようするに、個々人の人間(の心)で形作られる社会組織において、コミュニケーションはいかに行われ、そこにどのようにリーダーが生まれるのか、というシミュレーションモデルととらえることもできる。
 そして、このシミュレーションモデルでは、お互いに相手の心を理解し信頼する度合いの高い「開放システム」と、相手に対する理解度と信頼度が低い「閉鎖システム」でシミュレーションすると、開放システムの方では、リーダーが生まれたり、生まれなかったりと、不安定なものになるのだが、閉鎖システムの方では、確固としたリーダーが誕生するのだそうである。

 哲学的な話は、ぼくにはよく理解できないが、上記のような結論になることは経験的に容易に予測できる。ネットがまさにそのようなメカニズムで働いているからである。
 ネットは、一見、開放的で、格差がないフラットな情報空間であるが、はたしてほんとにそう言い切れるだろうか。自由度が高いだけに、変化が激しく、時として突出した話題が出てきても、すぐに消えていってしまう。その繰り返しである。
 ネット社会は、そのようなものだととらえれば、それはそれでいいのだが、そこに人間の心が絡んでくると、そうは言っておいれない。
 なぜなら、人間は、直接顔を合わせて湿った接触を持つことが本来の姿だからである。言葉だけでのコミュニケーション(ネットを通せば映像も無味乾燥なテキストと同じだ)は、真のコミュニケーションから多くのものを欠落させている。もちろん、100%理解しあえるコミュニケーションなんてそもそもないのであるが。

 ネットの世界に、自分の心を過剰適応させるのはよくない。ネットでのつながりは架空のものにすぎないのだ。触覚のつきあいではないので、簡単に裏切られる。
 また、そこには、「思考」は生まれない。ツイッターがいい例である。なぜ、すぐに、レスポンスを返さないといけないのか? 情報が速いということは、ビジネスで勝ち残るには確かにいい面もあるだろう。しかし、人間の思考というものは、できあがるのに時間を要する。
 なんらかの情報を与えられてすぐに反応を示すのは、思考しているのではなく、単なる脊髄反射だ。

 このような、単純な反射で行動するような人間が増えるとどうなるか? 従来のメディア以上に、大衆を煽動できるメディアになるのである。しかし、ネットメディアを使っている本人たちは、自分の脳で思考していると信じて疑わない。完全なる煽動・洗脳ができるのである。

 だから、ネットメディアが本来の開放的なメディアであり続けるためには、ネットメディアをまず疑ってかかることが必要だ。
 ネットが社会・政治を変革できるのも、一面、事実だ。いわゆる「アラブの春」では、ネットメディア中東諸国の古い体制を壊した。しかし、その後に来たのは、さらなる独裁者ではないのか。

 ネットが社会を動かせるのは、人と人のコミュニケーションの間に「思考と心」が入ったときだ。これが無い限り、能天気にウェブ政治などと言うべきではないと思う。ネットが政治や社会を変えるという無邪気な幻想がいちばん怖い。

 今、我々にできること、しなければいけないことは、ネットの裏に潜む、さまざまな意図を見抜くことだろう。ネットは決して、自由な楽園ではない。猛獣天国なのだ。

 と、このように、本書を読んで思いました。
 ま、ライプニッツやドゥルーズをネタに、話を展開できれば、かっこいいなと思うこともあるのだが、残念ながらぼくにはできない。というか、哲学者はもっと身体化した思考をすべきなのではないか、と思う。
 簡単なことを難しくいうのではなく、簡単なことは簡単に言えばよい。哲学なんてそもそも幻想にすぎないのだから。