1Q84は量子の世界では「普通のこと」 ― 2012年11月04日 22時46分17秒
『1Q84』(村上春樹、新潮文庫)を読み終えた。
1冊あたり約400ページの文庫本6冊の長編を読み終えたのは、数年前の『国盗り物語』(司馬遼太郎、新潮文庫)以来のことだ。
よく計算された緻密な構成の小説だ。一つ一つのなにげない出来事が、一つの無駄もなく意味を持っている。
最初は、ジグソーパズルのピースをバラバラに提示されるが、読み進むにしたがってしだいに一つのイメージができあがってくる。
主人公の一人青豆は、首都高速道路の非常階段を降りたときから、1984年の日本から1Q84年の日本に紛れ込んでしまう。そこは、見た目は何一つ1984年と変わらない雑多な日本の日常だが、なにかが違う。
最初のヒントは、二つの月だ。そして、小説の中のもう一つの小説『空気さなぎ』が物語を紡ぎ始める。入れ子構造になった小説中の小説が、1Q84年の世界の「ほんとうの物語」だ。
主人公の一人天吾は、『空気さなぎ』は、17歳の少女が書いた幻想小説としか思っていなかった。しかし、実際、1Q84の世界では、その小説に描かれているのと同じことがおこっていた。
1Q84の世界には幻想的な出来事が、ほんとうの1984年の出来事の「相似形」としてたくさん散りばめられている。
読者は、虚と実の混在した世界で、しばし、実在と不在の区別を見失い。自分が見て聞いて認識している世界に疑いを持つ。
この小説には、世界は曖昧なものであり、意味も不確かである、というメッセージが含まれているのではないだろうか。
何一つ確かなものはない。月だって二つある。
最後に青豆と天吾は、青豆が1Q84の世界に入り込んだ首都高の非常階段を逆に上り、「元いた」「ほんとうの」1984年に戻る。
長い幻想の旅で、得られたものは、天吾という、また青豆という最愛のパートナーだった。
しかし、この世界に戻った直後、青豆は、首都高の路肩で見たエッソの看板のタイガーの顔の向きの右と左が違うような気がする。もしかしたら、ここもまた、別の1Q84年なのかもしれない。
印象に残るのは、なんといっても、牛河の不気味さだろう。容貌醜怪な弁護士崩れの私立探偵(?)牛河が、作中のストーリーテラーだ。彼が、パズルのピースを徐々につなぎあわせていく。
そして、隠されていたメッセージが浮かび上がってきそうになったところで、あちらの世界に送られてしまう。
牛河が消される場面で、タマル(ボディーガード、青豆の味方)と牛河との間で交わされる会話が多すぎるような気がする。もう少しクールに冷酷に描いてほしかった。
それは、カルト教団のリーダーと青豆の会話も同じ。物語の最も重要なシーンで説明が多すぎると思う。
不気味といえば、もう一つ。NHKの集金人のしつこさだ。何の前触れもなくいきなり訪ねてきて、しつこくドアを叩き、受信料を払えと下品な言い方でわめきたてる。
この小説は、NHKでドラマ化することは不可能なのではないだろうか。
しかし、NHKの集金人は、この小説で、重要なキーの一つだ。天吾の父がNHKの集金人であり、その強引な営業につき合わされていたのが、小学生時代の天吾なのだ。
そして、毎日曜日、集金に歩きまわる父親に連れまわされていなければ、青豆とのつながりも生まれなかった。
読者は、小説中のNHKの集金人のしつこさ・強引さ・いやらしさに、実際のNHK集金人と牛河のイメージをダブらせ、恐怖と不快感をつのらせる。
1Q84というもう一つの世界があるという設定は非常に興味深い。量子力学には、いくつもの世界が重なりあって存在しているとする多世界解釈がある。量子的存在は1点には収束しない。1点に収束したときは、見えているものが実体ではない。エネルギーの実体は、常に重ねあわせ状態にあり、位置と速度(運動量)を同時に決めることができないのだ。
また、量子論が支配するミクロの世界では、粒子と反粒子が対生成して、10のマイナス44乗秒というプランク時間の後に対消滅で消えている世界だ。つねに、向こう側の世界とこちらの世界でエネルギーが行き来している。
1Q84の世界は、量子の世界では、「普通のこと」なのである。
Qは、question markのQであるとともに、quantumのQでもある。
今、世界は、決して意味づけできない巨大な曖昧性をかかえたまま、どこかへ流れていこうとしている。小説『1Q84』は、人間が抗うことができない、巨大な奔流--いや、それは粘液質の流れかもしれない--のごくごく一部を、読者に垣間見せてくれたのではないだろうか。
【追記】
下記の記事もお読みください。
2012年10月28日の記事『過剰なまでの意味づけは徒労かもしれない』
2012年10月25日の記事『人は見かけにだまされる』
1冊あたり約400ページの文庫本6冊の長編を読み終えたのは、数年前の『国盗り物語』(司馬遼太郎、新潮文庫)以来のことだ。
よく計算された緻密な構成の小説だ。一つ一つのなにげない出来事が、一つの無駄もなく意味を持っている。
最初は、ジグソーパズルのピースをバラバラに提示されるが、読み進むにしたがってしだいに一つのイメージができあがってくる。
主人公の一人青豆は、首都高速道路の非常階段を降りたときから、1984年の日本から1Q84年の日本に紛れ込んでしまう。そこは、見た目は何一つ1984年と変わらない雑多な日本の日常だが、なにかが違う。
最初のヒントは、二つの月だ。そして、小説の中のもう一つの小説『空気さなぎ』が物語を紡ぎ始める。入れ子構造になった小説中の小説が、1Q84年の世界の「ほんとうの物語」だ。
主人公の一人天吾は、『空気さなぎ』は、17歳の少女が書いた幻想小説としか思っていなかった。しかし、実際、1Q84の世界では、その小説に描かれているのと同じことがおこっていた。
1Q84の世界には幻想的な出来事が、ほんとうの1984年の出来事の「相似形」としてたくさん散りばめられている。
読者は、虚と実の混在した世界で、しばし、実在と不在の区別を見失い。自分が見て聞いて認識している世界に疑いを持つ。
この小説には、世界は曖昧なものであり、意味も不確かである、というメッセージが含まれているのではないだろうか。
何一つ確かなものはない。月だって二つある。
最後に青豆と天吾は、青豆が1Q84の世界に入り込んだ首都高の非常階段を逆に上り、「元いた」「ほんとうの」1984年に戻る。
長い幻想の旅で、得られたものは、天吾という、また青豆という最愛のパートナーだった。
しかし、この世界に戻った直後、青豆は、首都高の路肩で見たエッソの看板のタイガーの顔の向きの右と左が違うような気がする。もしかしたら、ここもまた、別の1Q84年なのかもしれない。
印象に残るのは、なんといっても、牛河の不気味さだろう。容貌醜怪な弁護士崩れの私立探偵(?)牛河が、作中のストーリーテラーだ。彼が、パズルのピースを徐々につなぎあわせていく。
そして、隠されていたメッセージが浮かび上がってきそうになったところで、あちらの世界に送られてしまう。
牛河が消される場面で、タマル(ボディーガード、青豆の味方)と牛河との間で交わされる会話が多すぎるような気がする。もう少しクールに冷酷に描いてほしかった。
それは、カルト教団のリーダーと青豆の会話も同じ。物語の最も重要なシーンで説明が多すぎると思う。
不気味といえば、もう一つ。NHKの集金人のしつこさだ。何の前触れもなくいきなり訪ねてきて、しつこくドアを叩き、受信料を払えと下品な言い方でわめきたてる。
この小説は、NHKでドラマ化することは不可能なのではないだろうか。
しかし、NHKの集金人は、この小説で、重要なキーの一つだ。天吾の父がNHKの集金人であり、その強引な営業につき合わされていたのが、小学生時代の天吾なのだ。
そして、毎日曜日、集金に歩きまわる父親に連れまわされていなければ、青豆とのつながりも生まれなかった。
読者は、小説中のNHKの集金人のしつこさ・強引さ・いやらしさに、実際のNHK集金人と牛河のイメージをダブらせ、恐怖と不快感をつのらせる。
1Q84というもう一つの世界があるという設定は非常に興味深い。量子力学には、いくつもの世界が重なりあって存在しているとする多世界解釈がある。量子的存在は1点には収束しない。1点に収束したときは、見えているものが実体ではない。エネルギーの実体は、常に重ねあわせ状態にあり、位置と速度(運動量)を同時に決めることができないのだ。
また、量子論が支配するミクロの世界では、粒子と反粒子が対生成して、10のマイナス44乗秒というプランク時間の後に対消滅で消えている世界だ。つねに、向こう側の世界とこちらの世界でエネルギーが行き来している。
1Q84の世界は、量子の世界では、「普通のこと」なのである。
Qは、question markのQであるとともに、quantumのQでもある。
今、世界は、決して意味づけできない巨大な曖昧性をかかえたまま、どこかへ流れていこうとしている。小説『1Q84』は、人間が抗うことができない、巨大な奔流--いや、それは粘液質の流れかもしれない--のごくごく一部を、読者に垣間見せてくれたのではないだろうか。
【追記】
下記の記事もお読みください。
2012年10月28日の記事『過剰なまでの意味づけは徒労かもしれない』
2012年10月25日の記事『人は見かけにだまされる』