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「ニッポンのジレンマ」 1970年代以降「個化」はますます深まった2012年01月02日 02時12分29秒

「1970年代以降生まれの方 限定」というふれこみの番組が1月1日深夜、3時間にわたって放送された(録画は本番の数時間前)。「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」という番組だ。
1950年代生まれのぼくは見てはいけないのかなぁ、と思ったがそんなことはないだろう。
と、見始めたら、午前2時まで全部見てしまった。原稿書かねばならないのに、困った番組だ(笑

1970年以降生まれの若い言論人12人が、「格差」など現代日本がかかえる諸問題について討論をくりひろげる番組だ。良い番組だったと思う。大晦日にやっていた恒例の「朝生」より、断然面白かった。
「朝生」は言ってみれば、団塊世代の番組、「ニッポンのジレンマ」は、団塊世代により「格差」を強いられている世代の番組だ。
「朝生」のようなイデオロギーむき出し・二項対立大好きみたいな考えでは、現在の分散型共有社会を理解することはできない。
そういう意味で、ぼくは「ニッポンのジレンマ」の方が、刺激的で面白かった。

だが、番組の最後に宇野常寛さんが「なんか徒労感が残る」と言ったが、ぼくも同じように感じた。

なぜなんだろう? それはたぶん、結論が出てこない、また見えてもこないからだと思う。
もちろん、それらしき結論は出ている。荻上チキさんが言ったように「ぼくらの考えをメディアなどを通して発信し続けていくしかない」のかもしれない。

しかし、その言葉も、やはり評論家の言葉でしかない。全体に学者系・評論家系の論客が多かったからそうなるのだろうが、そういう点からは、福島でフィールドワークを続けている東大大学院生の開沼博さんや起業家の駒崎弘樹さんの発言は説得力があった。でも、「すごく」ではなくて「少し」だ。

出演者ばかりでなく、視聴しているぼくまで感じた「徒労感」っていったい何なのだろう?

それはおそらく「何をやっても変えることができない」という諦めに近い気持ちなのかもしれない。
番組の最後に、ライターの松岡由希子さんが泪を流したが、これは、諦観を乗り越える場が、リアルであれネットであれ、他者とのつながりと共感であることに気づいた、いや気づいたというより再認識したからなのではないだろうか。

しかしである。ぼくが思うに、そういったつながりの場は、えてして馴れ合いの場にしかならなかったりする。

つまり、いかに、現代社会は、個がますます以前にもまして孤立しているかということだ。「個化」が深まっているからこそ、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアといった、個と個を直接つなぐ(かのように見える)P2Pのメディアが好まれるのだろう。

彼ら若い世代が、現代社会が抱えている隘路をぶち破ることができなければ、未来はかなり暗い。

この状況を変えるにはどうすればいいのか。具体策が必要だ。
たぶん、馴れ合って群れていてはダメだろう。
荻上さんが言うように、情報を発信し続けて個々人の意識を変えていくことが大切で、いちばん効果がある方法だと思うが、時間がかかる。
やはり、新しい「世の中の動かし方・システム」みたいなものをつくりだしていかないといけないのではないか。
でも、具体的にどうすればいいのかというと、ぼくにもわからないなぁ。

とりあえず、ぼくも、気がついたところから、世の中の矛盾点を少しずつ、書いていこうと思う。